墓はあった。だが、参られてはいなかった
墓はあった。だが、参られてはいなかった
―― 前田利家と浅井長政の時代
墓参りは、日本人にとってとても身近な行為です。
お盆や彼岸になれば墓を掃除し、花を供え、手を合わせます。
それをしないと、どこか落ち着かないと感じる方も多いでしょう。
私たちは、こうした行為が昔から当たり前に行われてきたものだと、
無意識に考えています。
まるで、日本人は古くから墓に参ってきたかのように感じてしまいます。
しかし、本当にそうだったのでしょうか。
戦国時代から江戸初期にかけての武将たちの死後を見てみると、
私たちが当然だと思っている「墓参り」の前提が、
静かに揺らぎ始めます。
たとえば、前田利家です。
前田利家の菩提寺は、城下町の中心に置かれていました。
政治や文化の中枢に近い場所であり、
追善供養や法要は、そこで営まれていました。
一方、利家の埋葬地は、城下から離れた野田山にあります。
山の中腹に設けられた墓所は、
日々の生活の場からも、祈りの場からも距離を置いた場所でした。
ここで注目すべきなのは、
寺と墓が、明確に分けられていたという点です。
祈りは寺に向けられ、
遺骸は山に置かれました。
墓は存在していましたが、
そこは日常的に足を運び、手を合わせる場所ではなかったのです。
同じ構造は、近江の戦国大名・浅井長政にも見られます。
浅井長政の菩提寺は、京都にありました。
当時の宗教・文化の中心である都に菩提寺を置き、
一族の法要や供養は、そこで行われていました。
一方で、長政の埋葬地は、観音寺山の山中にあります。
政治や生活の場から切り離された場所に、
遺骸は静かに葬られていました。
前田利家と浅井長政。
地域も立場も異なる二人ですが、
死後の扱いには、はっきりとした共通点があります。
祈る場所と、遺骸の場所は、分けられていたのです。
ここで大切なのは、
墓が軽んじられていたわけではない、という点です。
墓は、
遺骸を安置するために必要でした。
穢れを生活圏から切り離すためにも必要でした。
また、家の記録として残す意味もありました。
しかし、墓は
「会いに行く場所」ではありませんでした。
「語りかける場所」でもありませんでした。
祈りや供養は、
僧侶が常駐する寺院で行うものだったのです。
墓は、
生きている人が頻繁に訪れるための場所ではなく、
むしろ生活圏から距離を取るために、
山に置かれていました。
この事実は、現代の私たちの感覚と大きく異なります。
現代では、
「墓がある=参る場所である」
という前提が、ほとんど無意識のうちに共有されています。
しかし、少なくとも戦国時代から江戸初期にかけて、
その前提は存在していませんでした。
墓はありました。
けれども、墓参りという行為は、
まだ生まれていなかったのです。
では、私たちはいつから、
墓に行くようになったのでしょうか。
いつから、
遺骸の場所であったはずの墓が、
手を合わせる場所へと変わっていったのでしょうか。
次回は、
祈りが向けられていた場所、
すなわち神社・寺・墓の役割分担という視点から、
この変化を見ていきます。
